楽野由乃ブログ

ムダな時間と手間をはぶく。持ちすぎないシンプルな暮らしについて書いています。

空き瓶の所有数から見えた執着の正体。執着を手放して憧れのすっきりキッチンへ。

キッチンの持ち物をミニマムにすべく、不用品を掘り出して手放すことに取り組んでいます。

明らかな不要物を処分したはずでしたが、もう一度棚を確認したら思った以上に空き瓶を持っていたので所有量を吟味し直しました。

ところが、たかだか空き瓶なのに、処分するとなると、不安のようなモヤモヤした気持ちになって自分でも驚きでした。

この不安やモヤモヤを放置することは執着の正体が不明なままなので、また物を増やしかねません。

そこで、このようにして執着を手放しました。

使い切れないくらいの空き瓶がないと不安になるのは?

どうして使い切れないくらいの空き瓶を持っていないと、不安になるのだろう?

これまであまり深く考えたことはありませんでした。

でも、使いもしないものを溜め込んでいたら、いつまでたってもスッキリしたキッチンにはなりません。

改めて、空き瓶にまつわる執着の原因を考えてみました。

すると、空き瓶=母を連想するイメージが出てきました。

実母も義母も、2人共マメに色々作る人です。

梅干し、らっきょう漬け、ジャム、松前漬け、イカの塩辛など、ご飯の友になりそうな保存食。

様々な保存食を作っては、様々な大きさの瓶に詰めて保存しています。

そして、子供たちが帰省してくると、そこからさらに空き瓶に詰めて持たせてくれるのです。

嬉しそうに、また得意げに、お裾分けしてくれる母達。

喜んでそれを受け取る私。

このような体験によって、空き瓶は幸せを行き来するツールというイメージにつながっていったようです。

空き瓶がなくなってしまったら、幸せも減ってしまうような錯覚に陥っていたのでした。

空き瓶の量で幸せの度合いが変わることもないのに、おかしな話です。

また、空き瓶を活用している人は、私にとっては丁寧な暮らしをしている人の象徴であり、ちょっとした憧れでもあります。

ゴミのような空き瓶が、憧れと幸せの象徴だったのです。

そのことに気づいたら、急にバカバカしくなってしまって、すんなり手放そうっていう心境に変わりました。 

よくよく考えてみたら、私自身は2人の母のようなマメさが全くありません。

保存食を作って瓶に保存する、といった活用を全くしない私には、必要ありません。

空き瓶がなくたって今の幸せが失われることがないと気づいたら、なんだかホッとしました。

マメじゃない私の空き瓶の使い道。

母達は保存食を入れるために空き瓶を活用していましたが、私はそうではありません。

それでも時々必要になることがあります。

 例えばこんな時です。

 

・クミン塩を作って保存

・とろとろ石鹸を作って保存

・大葉の保存(瓶に入れて保存すると長持ちします)

・はちみつ漬け(ゆず・レモン・生姜)

 

私が空き瓶を使うシーンは、だいたいこの4つです。

はちみつ漬けは、作る年と作らない年があってマチマチだし、途中で飽きて捨てることもよくあります。

よって、たくさん作る必要もないので、空き瓶もほんの少しあれば大丈夫です。

今回処分した空き瓶など。

今回キッチンから、これらのものを処分しました。

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・空き瓶6個

・醤油差し

・ペットボトルホルダー

 

空き瓶は3つだけ残して、その他は処分します。

醤油差しは、今は全く出番がないので処分します。

醤油は真空パックのものをそのまま使っているからです。

ペットボトルホルダーは次女が小学生の頃の物で、もう使わないと言われました。

私が使ってみましたが、思いの外使いにくく放置。

勿体ないようですが、このまま取っておいても使うことはないでしょうから、処分します。

 

おわりに

空き瓶を通して、母達を重ねて見ていたことに気づきました。

物がない時代に育った母達は、手作りするのが当たり前の田舎育ちで、とてもマメです。

そんな母達を尊敬していて、いつしか私も娘達に同じようにしてあげられたら、という憧れもありました。

でも、私は母達のようなマメさはなくズボラなので、憧れはありますがおそらく無理でしょう。

執着の元は、失いたくないという感情です。

今回は、憧れるけど無理だという残念な自分を許すことが、執着を手放すことに繋がるのかな、と思いました。

よくわからないけど不安、なんだかモヤモヤする。

そんな時は、徹底的に物にまつわる自分の感情を見ていくと、執着の正体がわかり、すんなり手放せることが分かりました。